下級国民N氏の日乗

ボンビーアラ還オヤジの日記

上級国民の手のひらの上で呷る高アルコール缶チューハイ

アルコール濃度がやたら高い缶チューハイが一大ブームである。
10年近く前と記憶しているが、キリンの缶チューハイでは一番の売れ筋である「氷結」ブランドのラインナップにアルコール分9%のものを加え市場に投入したものが嚆矢。
他社が流行り物を出せばすぐに同じようなものを、大量の広告出稿とともに、販売力にものを言わせて世の中にばらまくサントリーが「ストロングドライ」シリーズを出し、あっという間に先発の「氷結」を追い抜いてしまい、以後キリン、サッポロ、アサヒ、はたまたウィルキンソン、コカコーラ、サンガリアまでがこの世界に参入してきて乱世戦国の様相を呈している。
酒税法で今のところ優遇されているので、その希望小売価格は普通のジュースやコーヒー、紅茶飲料といったソフトドリンクより安価に設定でき、350mlのレギュラー缶サイズなら同じサイズのソフトドリンク缶より50円近くも安い。
値段のわりにアルコール分が高いので、酔いのコスパが抜群によく、もともと金のない若い層のみならず、手取り収入が大幅に減少している中級下級国民クラスのリーマンたちの家飲みのマストアイテムとなっている。
最近なんぞは家まで我慢できず、公園や駅前広場の片隅の休憩コーナーあたりで、上着を脇に鋏み持ちネクタイを緩めたサラリーマンのグループが、いっしょに買ったのであろう乾き物をつまみながら、たとえばサントリーの「ー196℃ストロングドライレモン」の500mlロング缶でプチ酒盛りをやっている光景をよく目にするようになった。
暮れなずむ街の真ん中でスルメかじって安酒呷って立ち呑みというのは、かつての肉体労働者いわゆるブルーカラーの専売特許みたいなもので、サラリーマンに代表されるホワイトカラーはそんなブルーカラーの宴の場を避けるようにしながら、彼らにどこか蔑みと哀れみ、そしてわずかに羨望めいた視線を走らせ足早に立ち去っていったものである。
ホワイトカラーvsブルーカラーという図式は今、富裕層(上級国民)vs貧困層(下級国民)という言葉に取って代わられている。私は中級国民であった、とこのブログでもよく言及しているが、事実上中級国民などもはや存在しない。
昔の「私の家はどちらかと言うと中流です」の意識が今となってはあれはただの幻想に過ぎなかったことがはしなくも露呈されたが如く、ゼニを持っているかいないか、ただそれだけの違いである。
ただそれだけの違いが今の日本の格差社会の下ではすべてを決定づけてしまうエレメントであり、ゼニを持っている奴は未来永劫ゼニを持っている奴、すなわち国家や社会にとって価値ある上流階級であり、タワーマンションの最上階のワンフロアすべてを占めるペントハウスの40畳のリビングの掃き出し窓の前にたたずみ、シャトー・ラトゥールを日常飲み出来る人が、グラスに注がれたそれを舐めながら優雅に夜の大都会を見下ろしている地べたで、やっすいきっつい缶チューハイを呷っておだをあげている小汚い貧しき民、最期を迎える頃には福祉と年金に頼るしか生きる術がないという、富裕層やそれを支える国家から見ればただの役立たずのゴクツブシに過ぎない下級国民どもを知らずのうちに目の端に捉えているシーンが完全に固定化された社会となってしまったのである。
上級国民は汚れ仕事を当然やらない。そんなものは低賃金かつ長時間という悪条件の下で3K仕事底辺仕事で口に糊せざるを得ない者たちがやることである。
しかしこいつらとて人間である。一寸の虫にも五分の魂というではないか。いついかなる時、レーニンにしろヒトラーにしろ天才的なアジテーターが現れ、下級国民をけしかけ暴動を起こさないとも限らない。
適当に息抜きガス抜きを与えてやらねばならぬ、ということで缶チューハイの税率を下げたまま、もはや毒としかいえない高濃度アルコール飲料を与え、脳を溶かせ思考力を奪い、あるいはネットの上で好き勝手言わせておくぐらいの自由は与えてやらないとなあ、というわけであろう。
そんな上級国民の思惑になにせ持つべきものを持たないものだから、今日も今日とてストロング缶チューハイをスーパーのPBポテチといっしょに飲んで、安物過ぎる陶酔の中で日々の憂さから逃れているのである。
どうでもいいことだが、この手のものではこのウィルキンソンのドライが一番美味いと思う。炭酸強いし。

kantyuhaipoteti

吉野家の牛丼の肉の量にイジイジいじましくいやしく…

久しぶりに吉野家で牛丼を食した。 
380円の並盛をオーダーしたが、ネットで口さがない連中が「最近の牛丼屋はどこも昔に比べて肉の量を減らしている」とまことしやかに騒いでいる。
実態はいかばかりかと思いきや、う~んどうだろうか、減っているといわれたら、あるいは減っているという先入観を持たされて見やれば、なんとなく微妙にそうかも知れないなというレベル。
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此度食べたのは盛り方によると思うのだが、肉と肉のすき間 が2カ所あってご飯の白さが目立つ。 以前はもう少し肉の密度が濃かったかな。
少なくともご飯という地面むき出し状態が点在なんて見た記憶がない。 
上手によそえばそのあたりなんとか隠せるものをと、反感の前に苦笑が先立つ。 
しかし、牛丼はやっぱり吉野家が一番美味い。
たれの甘辛さがほどよくご飯にしみこんで、そこへトッピングした紅ショウガと肉の特に脂身の部分が混じりあう瞬間の美味は松屋やすき家、なか卯には少なく ともワタクシ的にはありえない。 
それにしても、並盛り1杯380円の「たかが」(と、あえて言う)牛丼の肉の量を云々するとはケチくさいちゃあケチくさい話ではある。 
実は最初はテイクアウトして、時候もちょうどいいから、どこか公園で食べようと考えていたのである。 
というのはスマホに入れているSmartNewsアプリのクーポンに吉野家も参加しており、テイクアウトなら30円引きとなっている。これなら日差しはきついが木陰に入れば皐月の薫風吹き渡る中で350円で牛丼を楽しめると。
公園のベンチに座った60づらしたオヤジが一人、丼を模した発泡スチロールの容器に盛られた牛丼にがっついている姿。 
30円引きならそれも我慢出来るとその時は思えたが、しかし待てよ、いくらなんでもそりゃあまりにも貧乏臭いとさすがに反省して、泣く泣く30円引きはあきらめ店外食いは止めたのだが、店内で食えば食ったで牛丼の肉が少なくなったようだとブー垂れるたあどうにもセコすぎる。 
貧すりゃ鈍するとはよく言ったもの。
「ショボクレ人生」 という、クレージーキャッツが昭和30年代半ばに放ったヒット曲があるが、その中で「ショボクレたことすんなこのヤロー!」と植木等が一喝して「もっとでかいことなぜ出来ぬ~」とシメるフレーズがあるが、まったくおっしゃるとおりでございます。

ボロは着てても~~心は錦~♪・・・ではけっしてない。

見た目の第一印象で人は人を仮評価する。その人物の性格や内面のことなど、ある程度付き合うどころかいくら付き合っても分かり得ないことの方が多い。
だから私はユニクロやしまむらあたりで買った服ばかりだが、なるべくこざっぱりと清潔に、今の季節ならなるべく明るい色合いのものを選ぶようにしている。
髪も1000円床屋だが2週間に一度調髪してもらっている。歩く時は背筋を伸ばし、やや急ぎ気味のふりしてさっさと歩く。
とにかく外面だけでも体裁を調えておく。
アラ還暦であるから、当たり前の話だがこれから先は60代70代80代もしかして90代まで年を重ねる一方であり、ジジイ道まっしぐらであるから、極力爺むさくならないように心がけている。
私が住まう場所を中心に半径5km圏内に業務スーパーやサンディ、ラ・ムーといった名だたる激安スーパーがある。しょっちゅうお世話になっている。
自分で利用しておいていうのもなんではあるが、それらの店では実にみすぼらしい年寄りをよく見かける。
年金だけじゃとてもとても、生活保護もらって生きてますです、と身体に書かれたような年寄りが。
毛玉だらけの色褪せた紺ジャージの上下、トイレで使うタイプだと思しきサンダルの底はぺらぺら。ボサボサの白髪頭に無精髭、「全日本みすぼらしアワード」なんかが開催されたら審査員全員一致で優勝できそうな、後期高齢者と推定される爺さんが乳飲料コーナーの棚の奥に手を差し込み、牛乳パックを次から次へと抜き出しては、老眼鏡を頭に乗せてパックの裏を凝視している。
横に立ってさりげなくその様子を盗み見したら、案の定消費期限の日付で、だから奥の方に手を突っ込んで取っていくのかと納得。
消費期限が刷られたところを這う指は節くれだって汚れており、やや伸びた爪の先は垢が溜まって黒い三日月状と化し汚らしいことおびただしい。
そんな指で次から次へと牛乳パックを触るものだから、この店で少なくとも牛乳だけは買わんぞと心に決める。
元あった場所にちゃんと戻せばいいものを斜めに置いたり、並べるのが面倒なのか林立する他のパックの上に横たえたり、あるいは倒したら倒したまま。
たまらず「なあ、お父さん。選んだらちゃんと置いときましょうや」と、そこは人生の先輩であるから若干の敬意をこめてやんわり注意申し上げたら、「なんやあんた?店員か?ちゃうねんやったら黙っとれ。店員にやらしといたらええねん」と、茶ばみ黄ばみと秋の落ち葉みたいは歯(入れ歯なら洗浄剤を買う金もないのか)をむき出しに開き直りやがったのである。
これが10年も若ければ何か言い返しているのだが、70代も半ばを過ぎた老人が1000cc98円という安すぎる牛乳のなるべく新しいものをと必死になっている姿に、15年後もしかして俺もこうなっているのかなという思いがよぎり、黙ってそのままそこから離れていった。
人間お金がなければ心まで荒さんでしまう典型を見せられ、ボロは着てても心は錦~♪なんて昔、水前寺清子が歌っていたのを思い出し、いいこと歌っているけど実情はこれだ、とボロを着ている奴はやはり心もボロっちかったという見た目の印象は存外当たるものだと納得して冒頭の書き出しとなったわけである。

お一人様の世界は無限大に拡がっている。

休日はもっぱら図書館通い。もしくは月払いで加入しているアマゾンプライムで見放題の動画を楽しむ。
下級国民に交際費なんてものは「なにそれ?」の勘定科目であるから、誰とも会わず付き合わず、ひたすらお一人様のオフを楽しむしかない。
「楽しむしかない」と他に方策がないように書いているが、実はこの「お一人様オフ」、慣れてしまえばこれほど楽しいことはない。気を遣う相手がいないということのリリーストマインドの素敵さ素晴らしさ。
誰それ某とどこそこで待ち合わせ、やれどこで飲むあそこにしようここにしよう…かつて数えきれないほど繰り返してきたルーチンな時間の中でどことなくうっすら感じていた「なんかめんどくせーな」という思い。
本性的に俺は一人でいるのが好きな人間だったんだと気づいた今、最近の行政といい社会全体といい、どうして人と人をつながらせようとするのか、一人でいることの自由を「孤独」「寂寥」「惨め」な括りで悪いことのようにすり替えて極力孤独のシチュエーションから逃れさせたがるのか不思議で仕方がない。
一匹狼を気取るわけではないが、俺は一人で充分楽しいから、という人を何も無理に人付き合いの中に放り込むことはないだろうが。
図書館では3時間ほど過ごす。高校の時から一度はやってみたかった「世界・日本の文学全集」読破を実行中である。
「筑摩現代文学体系」全97巻という巻数だけでも圧倒される全集にトライ中である。当節の流行作家の新刊書や文庫などは図書館が購入架蔵次第あっという間に何人もの人が借りて読むから、すぐにコグチ部分などが指脂で黒く汚れ、本を開けば開いたで、何の染みなのか知れたものでない跡が気になりなかなか読むことに集中できない。
その点、文学全集などは日本の作家でいうなら漱石や太宰、芥川、川端、三島といったマストアイテムな作家のものなら多少汚れている程度、他のおよそ文学好き以外は誰も知らないであろう作家のものは新品のまま経年汚れという紙の本なら避けられない黄ばみが目立つだけ。
本そのものも分厚く重いのでほとんど誰も借りたりせず、かといって館内で読む奇特な人などほとんどおらず、行けば必ず棚にある。
かつて山本夏彦は「本を読むということはそれを書いた人と友だちになるということだ」みたいなことを書いていたが、本当にその通りだと思う。
該全集第23巻「永井荷風集」を読んでいるのだが、収録作のひとつ「すみだ川」は作家の代表作でもあり、私自身新潮文庫版で30年ほど前に一度読んでいた。
「すみだ川」の前に抄録だが、あの「断腸亭日乗」が収録されている。
このブログのタイトルに「日乗」とあるのはここから来ている、とことさら書かずとも荷風を読んでいる人なら「こら。パクるな」とお怒りであろう、とかなんとか想像していると楽しくなる。
もとより断腸亭主人こと金阜山人こと永井荷風先生が丸眼鏡の縁に指をかけて長い顎の上にある口をへの字にしてあの世からじっとこちらを睨みつけて「フン!」と鼻であしらっておられると思うと、これまたなにやらおかしくなってくる。
 
 「・・・長吉は先刻から一人ぼんやりして、或時は今戸橋の欄干に凭れたり、或時は岸の石垣から渡場の桟橋へ下りて見たりして、夕日から黄昏、黄昏から夜になる河の景色を眺めて居た。今夜暗くなつて人の顔がよくは見えない時分になつたら今戸橋の上でお糸と逢ふ約束をしたからである。然し丁度日曜日に当つて夜学校を口実にも出来ない処から夕飯を済すが否やまだ日の落ちぬ中ふいと家を出てしまつた。一しきり渡場へ急ぐ人の往来も今では殆ど絶え、橋の下に夜泊りする荷船の燈火が慶養寺の高い木立を倒に映した山谷堀の水に美しく流れた。門口に柳のある新しい二階家からは三味線が聞えて、水に添ふ低い小家の格子戸外には裸体の亭主が凉みに出はじめた。長吉はもう来る時分であらうと思つて一心に橋向うを眺めた・・・」

ともに日和下駄を履きながら、荷風先生に明治末期の隅田川の情景の中を散策しているような錯覚に陥る。「長吉くん、お糸さんに会えたらいいですね」と文豪に話しかけながら。
「書いた人と友だち」になる(なれる)という感覚とはこのことをいうのかとあらためてこれも友人の一人である山本夏彦の言葉を懐かしく思い出しながら。
作家や作中人物に心の中で語りかけながら読んでいると3時間などあっという間に過ぎていく。図書館の椅子に座って、友だちとイマジネーションの旅をしてきたとも言える。
世界はそこにいる場所の面積で決まらない。無限大の宇宙の中、想像力をフルに使えば「自分世界」が途方もなく広がっている。

デリバリー寿司なんか頼む方が悪い。

実店舗がないデリバリーオンリーの寿司を、ポストに入っていたフライヤーの写真だけで判断して、よくもまあ出前させて食べられるものだと思う。
撮影の際の照明や角度の調整によって鮮度などいくらでもごまかせる。ネタの大きい小さいなども、目の前に来るまで知れたものでない。
ピザパイなどと違って、生ものだけに私なんかは恐ろしくてとてもじゃないが出来ない。
出来る人は、そして出前された寿司にハズレなど一度もありませんという人は天性のギャンブラーである。
カジノや競馬場に行け。必ず勝てる。それこそ毎日のように銀座や北新地あたりの超高級寿司店の超特上にぎりが食べられるというもの。
寿司が食べたくなれば回らない、回る、どちらのタイプにしても店に足を運ぶのが一番である。
お金に余裕があれば回らない寿司屋へ行くべき。しょせんは素人ゆえネタの良し悪しなどわかりもしないが、少なくとも目の前で職人が握っている姿を注視できるだけでも安心である。
いや、お金に余裕がなくとも回らない寿司屋へと書いておこう。
サービスランチなど店に若干の違いがあるにせよ、だいたい8~10貫、店のおまかせになるが様々なネタの寿司が味わえ、赤だしまで付いている。で、値段のほどは1000~1500円で済む。くどいがあくまで店によるけどね。
「ネタは新鮮で確か」率は回転寿司よりはるかに高い、かつ値段も回転寿司とさほど変わらない。あたしは20皿くらいすぐに積み上げますよガハハハという大食いの人は別として。
と、デリバリーオンリーで有名な某寿司に出前を頼んだ結果大失敗だった、ネタは小さくパッサパサ、シャリは箸でつまんだ瞬間に崩れ、新鮮どころかちょっとやばい臭いもかすかにして云々これじゃ詐欺だ1万円返せ、とボヤくことしきりの同僚のオッサンに言ったことをここに書き記す。
プロフィール
N氏
かつては中級国民の「下」のクラスの民であったが7年前に下級国民に転落。
ああ、せめて再び中級国民の下端部にしがみつきたやと明日が見えない今日を送る貧乏初老ジジイ。
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